timeleszのステージで歌い踊り、俳優としても舞台や映像作品に立つ原嘉孝。新メンバーとして知った人には、2025年から急にアイドルの道が始まったように見えるかもしれません。
けれど、その歩みをさかのぼると、川崎で過ごした小学生時代、中高6年間のバレーボール、教員を目指した大学生活、そして中学3年から続く長いジュニア時代があります。
中高6年間のバレーボール、教員を目指した大学生活、2010年からのジュニア活動。その先に2025年のtimelesz加入があります。
一直線にデビューへ進んだわけではありません。大学を途中で辞め、所属していた宇宙Sixが解散し、俳優として一人で進む時間もありました。それでも、グループで歌って踊ることへの思いは消えませんでした。
原嘉孝がどんな少年時代を送り、どんな進路を考え、なぜ長い時間を経てもう一度アイドルを目指したのか。まずは、地元で過ごした小学生時代からたどります。
原嘉孝は昔どんな子だった?川崎で過ごした小学生時代
原嘉孝は神奈川県出身。地元メディアの取材では中原区出身として紹介され、西丸子小学校で過ごした頃の思い出を語っています。芸能界に入るより前から、人前に立つことを意識する出来事もありました。
大人になってからも、小学校の恩師や地元の友人とは連絡を取り合っているそうです。仕事でさまざまな場所へ向かうようになった後も、地元は本人にとって変わらない場所でした。
「やっぱり地元は安心する」
出典:タウンニュース「ジャニーズJr.で、舞台『両国花錦闘士』の主演を務める 原 嘉孝さん」(2021年1月22日)
西丸子小の学芸会で芸能活動を始めた同級生と踊った
西丸子小学校には、すでに芸能活動を始めていた同級生がいました。原嘉孝はその姿にどこか憧れを抱きながら、学芸会ではその同級生と一緒に踊ったことを覚えています。
当時は自分も同じ芸能の世界へ進むとは決まっていません。それでも、学校行事の舞台で人前に立ち、芸能活動をしている同級生の存在を身近に感じていた時間がありました。
2人はのちに、とどろきアリーナで行われた成人式で再会しました。そのときには「いつか共演しよう」と話したといい、小学生の頃から続く縁が大人になっても残っていました。
6年間長袖を着なかった少年時代と「努力は実る」
小学生時代には、少し変わった勝負もしていました。同じクラスに一年中半袖で過ごす男子がもう一人いて、「どれだけ寒くても長袖を着ない」という暗黙の張り合いが始まったそうです。
その勝負は途中で終わらず、2人とも6年間長袖を着ないまま卒業しました。
後年アルバムを見返した原嘉孝は、当時の写真にタンクトップ姿が多いことにも気づいています。大人になってからもタンクトップ姿が話題になることがありますが、そのずっと前から薄着で過ごしていた時期がありました。
小学生の書き初めで書いた言葉は「努力は実る」。中学3年で芸能界に入り、多くの人がいる環境でダンスを練習するようになった後も、その言葉は本人の中に残っていました。
原嘉孝の家族構成は?母親・弟と進路を支えた家族
原嘉孝は家族全員の詳しいプロフィールを公表しているわけではありません。その中で本人のインタビューから具体的な日常が見えてくるのが、母親との習慣や、教師になった弟についての話です。
幼いころから母親に教わっていたスキンケア
原嘉孝は大人になってから美容へのこだわりを語る機会が増えていますが、肌の手入れ自体は芸能活動を始めてから覚えたものではありません。子どもの頃から、母親の影響で入浴後に肌を整える習慣がありました。
現在は美容液やシートマスクなども使っていますが、本人にとって化粧水や乳液は「特別に美容を頑張るためのもの」ではなく、幼い頃から家の中にあった日常の一部でした。
「オレ、お風呂上がりの化粧水と乳液は当たり前だと思っていたんですよ。」
出典:MAQUIA「timelesz 原 嘉孝さん。母から受けた美の英才教育」(2025年6月23日)
見た目については、周囲から父親に似ていると言われることも本人が明かしています。ただし、一般人である家族の氏名や職業など、公表されていない部分まで広げる必要はありません。
体育教師になった弟と、大学中退まで背中を押した家族
原嘉孝には体育教師として働く弟がいます。本人も大学では小学校教員を目指して学んでいたため、兄弟それぞれの進路に「教育」と「スポーツ」が重なる部分があります。
芸能界へ入るときだけでなく、仕事と大学生活の両立に悩んで大学を辞めるときにも、家族は本人の決断を支えていました。timeleszへの加入が決まった直後、最初に合格を伝えたい相手として挙げたのも家族でした。
「そっと背中を押してずっと応援してくれていたので」
出典:マイナビニュース「timelesz新メンバー・原嘉孝、“盟友”目黒蓮に『一番早く伝えなきゃ』 今後も切磋琢磨誓う」(2025年2月15日)
進路が変わっても、そのたびに本人が選んだ道を見守る家族がいました。大学時代に原嘉孝が目指していたのは、現在の仕事とはかなり違う「小学校の先生」という将来でした。
原嘉孝の学歴は?中高6年のバレー部から教育学部・大学中退まで
小学生時代を西丸子小学校で過ごした後、原嘉孝は中高一貫校へ進みました。中学から高校までの6年間はバレーボール部。卒業後は大学の教育学部へ進み、小学校教員を目指します。
中高一貫校でバレー部へ!先輩が教室まで勧誘
中学に入った時点では、バレーボールを6年間続けるつもりだったわけではありません。本人が最初に考えていたのはバスケットボール部でした。
「もともとはバスケットボール部に入ろうとしてたんです。」
出典:ORICON NEWS「timelesz原嘉孝、2026年の目標は『自発性』 バレーボール日本代表ドキュメンタリー『GRIT』でナレーション初挑戦」(2026年1月10日)
ところが、バスケットボール部の仮入部には多くの生徒が集まっていました。その帰り道、外のコートで練習していたバレー部の先輩から声をかけられます。
勧誘はその日だけではありませんでした。翌日も、その次の日も、ホームルームが終わって教室の扉を開けると先輩が待っていたといいます。原嘉孝はその誘いを断りきれず、バレー部へ入りました。
入部した同学年は当初わずか2人。上級生と一緒に練習や試合を経験し、自分たちが最上級生になった頃も人数は多くなく、下級生との混合チームで戦っていました。
ミドルブロッカーから主将へ、芸能活動との両立
ポジションはミドルブロッカー。最上級生の年にはキャプテンを務めています。ネット際でブロックや速攻を担うポジションでプレーしながら、チームをまとめる立場にもなりました。
ただ、中学3年からは芸能活動も始まっています。レッスンや仕事で部活動を休む日が出てくるようになり、主将として毎日チームにいられない状況も生まれました。
そのため、途中でキャプテンを外れる経験もしています。芸能活動を優先する日と学校の部活動を続ける日が並び、中高6年間の後半は二つの生活を同時に進めていました。
長く離れていたバレーボールは、のちに仕事でも本人の前へ戻ってきます。学生時代に経験した競技が、日本代表に関わる仕事や選手との交流につながる機会も生まれました。
大学の教育学部で小学校教員を目指していた
高校卒業後、原嘉孝は大学の教育学部へ進みました。進学先で考えていた職業は小学校の教員です。舞台や俳優ではなく、学校の教室に立つ将来を具体的に考えていた時期でした。
「僕は小学校の教員の勉強をしていたので」
出典:情報☆キック「主演舞台『愛称⇆蔑称』まもなく開幕! 原 嘉孝インタビュー」(2024年3月1日)
大学1年時には、約1週間、小学校の現場へ行く機会もありました。授業を後ろから見るだけではなく、休み時間には児童と遊び、昼食も一緒に食べています。
本人が思い描いていたのは、生徒と距離が近く、何でも相談してもらえるような先生でした。教育を学ぶことは「念のための進学」ではなく、仕事として教員を選ぶ可能性を持った進路でした。
一方で、教員免許は取得していません。大学4年時に行う本格的な教育実習では1〜2か月ほど時間が必要になり、すでに続けていた芸能活動との兼ね合いから断念したと話しています。
大学名について:本人は大学の教育学部に通っていたことを明かしていますが、具体的な大学名は公表された本人・公式情報では明らかになっていません。
20歳ごろに悩んだ末、大学を中退
大学生活の途中、芸能の仕事は少しずつ重くなっていきます。学校へ通いながら仕事を続けるだけでなく、その先に教員免許取得のための実習も控えていました。
本人は後年、20歳前後を振り返り、大学を辞めるかどうかで強く悩んだ時期だったと話しています。最終的には大学を途中で辞め、芸能活動を続ける道を選びました。
大学を辞めたことは、教師という選択肢を手放す決断でもありました。その後、教員役の舞台に出演したときには、教育学部で学んでいた過去や、小学校で児童と過ごした経験を改めて振り返っています。
15歳で事務所に入りジュニア時代が始まる
原嘉孝が事務所へ入ったのは2010年10月。中学3年のときでした。地元でバレー部に所属しながら、歌やダンスのレッスンにも通う生活が始まります。
同じ2010年に活動を始めたメンバーには、佐藤勝利、目黒蓮、宮近海斗、中村海人、松倉海斗らがいます。のちにそれぞれ別のグループでデビューしていく名前が並びますが、その頃は同じジュニアとしてレッスンやステージを重ねていました。
2010年10月に入所、歌とダンスを覚える日々へ
小学生の頃には学芸会で人前に立つ経験があったものの、事務所へ入ってからは仕事として歌い、踊るための練習が始まります。本人は後年、何百人もいる環境の中で誰よりもダンスを練習したという自負を語っています。
学校ではバレー部、放課後や休日には芸能活動。高校へ進んだ後も、その二つを続けました。さらに卒業後は大学へ進学したため、ジュニア活動と学生生活が重なる期間は長く続いています。
入所時期は2010年10月です。具体的な日付は本人・公式プロフィールでは公表されていません。中学3年の秋から、学校生活と芸能活動を並行する時間が始まりました。
目黒蓮らと重ねた長いジュニア時代
同期の中でも、原嘉孝と目黒蓮の関係は長く続きました。ジュニア時代を共に過ごし、2016年には同じ宇宙Sixのメンバーとして活動します。
その後、目黒蓮はSnow Manへ加入してデビューし、原嘉孝は俳優として活動する道へ進みます。進む場所が分かれてからも連絡は続き、2023年のドラマ『トリリオンゲーム』では久しぶりのドラマ共演も実現しました。
原嘉孝は当時、目黒の活躍を100%の気持ちで応援できないほど悔しさを抱えていた時期もあったと率直に明かしています。共演をきっかけに、その気持ちと向き合ったことも話しています。
同じ時期に事務所へ入り、同じグループで活動し、その後は別々の場所で仕事を重ねた2人。現在まで続く関係には、短い「同期」という言葉だけでは収まらない年月があります。
宇宙Sixでグループ活動、解散後は俳優の道へ
大学を中退して芸能活動へ比重を移したころ、原嘉孝には継続してグループで活動する時期が訪れます。長いジュニア生活の途中で加わったのが宇宙Sixでした。
宇宙Sixでは、目黒蓮らとともに舞台やバックダンサーなどで経験を重ねます。個人では舞台『Endless SHOCK』などにも出演し、歌やダンスだけでなく芝居の仕事も増えていきました。
2016年に宇宙Sixへ加入
長いジュニア生活の中で、宇宙Sixは原嘉孝にとって継続してグループ活動をする場所になりました。一方で、メンバーの進路は少しずつ変わっていきます。
目黒蓮がSnow Manとの活動へ比重を移し、グループを離れた後も宇宙Sixは活動を続けました。しかし2020年10月、宇宙Sixは解散します。
「グループでアイドルとしてデビューする」という最初の目標は、その時点では実現しませんでした。原嘉孝は一人で仕事を続けることになります。
2020年の解散と2021年のジュニア卒業
宇宙Six解散後、原嘉孝は俳優として舞台を中心に経験を積みます。2021年にはジュニアを卒業。グループの一員としてデビューを待つ立場から、個人名で仕事を受ける俳優へと軸足が移りました。
舞台では主演を任されるようになり、映像作品にも出演。自分一人で売れていくことを考え、芝居を学ぶ時間が増えていきました。演じること自体も好きになり、俳優としての道が具体的になっていきます。
グループがなくなった後も事務所を離れるつもりはなく、個人として結果を出す方向へ切り替えていました。だからこそ、その後に現れた「新しいグループのメンバーになる」という選択は、決して予定通りの進路ではありませんでした。
原嘉孝がtimeleszを目指した理由
俳優として仕事が続く中、2024年にtimeleszの新メンバーを探す「timelesz project」が始まりました。個人で積み上げていたキャリアの途中に、もう一度グループを目指せる機会が現れます。
本人にとって芸能界へ入ったときからの目標は「アイドルとしてデビューすること」でした。一度は俳優の道へ軸足を移しても、歌って踊ることへの気持ちは残っていました。
俳優として進んでも消えなかったアイドルの夢
宇宙Six解散後は、個人の俳優として仕事を増やしていました。すでに自分を俳優として応援してくれる人がいる中で、再びアイドルを目指すことには迷いもありました。
「それでも、やっぱり最後に戻ってくるのは、あきらめきれない夢でした」
出典:ORICON NEWS「原嘉孝、目黒蓮との『トリリオンゲーム』共演は『通過点』 『タイプロ』挑戦で気づいたアイドルへの思い『あきらめきれない夢』」(2025年2月7日)
参加には怖さもありました。すでに俳優として評価してくれる人がいる中で別の道へ動くこと、落選する可能性、ファンを戸惑わせる可能性。その全部を抱えた上で、オーディションへ進みました。
4次審査からtimelesz projectへ
4次審査では、寺西拓人、今江大地とともに事務所所属者として合流しました。原嘉孝はそれまでのキャリアを持つ一方、候補生としてはほかの参加者と同じ位置から審査を受けます。
合宿では年下の候補生に教える場面もありましたが、自分自身もチームの中でどう見せるかを問い直されました。5次審査では経験があるからこそ、変化をどう見せるかが課題になったと振り返っています。
4次審査のパフォーマンス直前、チームで円陣を組んだ瞬間には、久しぶりに「チームで歌って踊る自分」を表現できる喜びが込み上げたといいます。一人の俳優として歩いていた時間の後に、再びグループの中へ入った瞬間でした。
最終審査で「RUN」を歌い、2025年2月15日にtimeleszへ
最終審査に残った候補生は8人。東京ガーデンシアターで、timeleszのメンバーとともに「Rock this Party」を披露し、候補生8人では「RUN」を歌いました。
「RUN」を歌う前には、8人が同じ方向を向けているかを確かめるために円陣を組みました。原嘉孝は事前に映像を見せてもらうなど涙への対策までしていましたが、本番では感情があふれたと振り返っています。
結果発表で菊池風磨が最後の合格者を告げようとしたとき、原嘉孝は自分は呼ばれないと思い、一人でどう売れていくかを考え始めていました。最後に名前が呼ばれるまでの時間が、とても長く感じられたそうです。
「自分に素直になって、夢をもう一度追わせてくれた場所、ですかね。」
出典:anan「【timelesz project #ここから始まる物語】原嘉孝『タイプロは夢をもう一度追わせてくれた場所』」(2025年3月12日)
2025年2月15日、寺西拓人、橋本将生、猪俣周杜、篠塚大輝とともに新メンバーへの加入が発表されました。2010年から事務所で活動してきた原嘉孝にとって、15年目で迎えた新しいグループでした。
加入発表の日、原嘉孝は家族へ直接合格を伝えたいと話しました。さらに、長いジュニア時代を一緒に過ごした目黒蓮にも早く伝えたいと語り、今度は同じ「デビュー組」という立場で切磋琢磨したいと口にしています。
合格後すぐに8人で撮影した最初のアーティスト写真は、本人のスマートフォンにも残りました。家に帰ってその写真を見たとき、何度も涙が出たといいます。
西丸子小学校の学芸会で人前に立った少年は、バレー部、大学、宇宙Six、俳優として一人で進む時間を経て、再びグループのステージへ立ちました。timeleszで名乗る「アイドル」は、2010年から続いてきた時間の延長線上にあります。




























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