BE:FIRSTで、歌とダンスの両方を安定して届けるMANATO。ステージでは力みの少ない歌声やグルーヴのある動きが目を引きますが、その土台はデビューよりずっと前、福岡で過ごした子ども時代から少しずつ作られてきました。
最初からダンスが好きだった少年ではありませんでした。
幼いころは家のトイレやお風呂場でよく歌っていたそうです。そんな姿を見ていた両親のひと言から、小学生のMANATOは歌とダンスのレッスンへ通い始めました。
その後、中学生で海外へ渡り、学校生活と並行しながらオーディションやパフォーマンスの経験を重ねます。2021年に『THE FIRST』へ挑戦したときには、すでに「人前で歌う」「誰かの後ろで踊る」という両方の経験を持っていました。
福岡で歌っていた少年が、なぜニューヨークへ行き、どんな時間を経てBE:FIRSTのMANATOになったのか。幼少期からデビューまで、本人が残してきた言葉と当時の記録をたどっていきます。
MANATOは福岡でどんな少年時代を過ごした?
MANATOは福岡で生まれ育ちました。2024年に地元へ戻ったNHK『おかえり音楽室』でも、自分の原点として福岡を振り返っています。
子どものころから歌うことが身近にあり、CanCamのインタビューでは、トイレやお風呂場でも歌っていたと話しています。誰かに芸能活動を勧められる前から、日常の中に歌があったことがうかがえるエピソードです。
小学5年生ごろ、両親のすすめでレッスンへ
転機になったのは小学5年生ごろです。両親に勧められ、歌とダンスのレッスンへ通い始めました。ただ、本人が最初から両方を楽しんでいたわけではありません。
「最初は正直ダンスレッスンが嫌で。」
出典:J-WAVE NEWS「BE:FIRST・MANATO、中学1年でNY留学。当時は英語がわからなかったけれど…」(2022年3月29日)
歌は好きでも、ダンスは気乗りしない。そんな状態からのスタートでした。レッスンに通ううちに、同世代の参加者が結果を出していく姿を目にするようになります。
中学生になると「自分から」レッスンへ向かうようになった
中学生になるころ、MANATOの向き合い方が変わります。同世代でうまい人が結果を残す姿を見て、自分も追いつきたい、もっと上達したいという気持ちが強くなり、自分の意思でレッスンへ通うようになりました。
この時期には、レッスンを始めて間もない段階からさまざまなオーディションにも挑戦しています。そのうちの一つが、のちのニューヨーク留学につながりました。
小学生では球技クラブ、中高では部活に入らず歌とダンスへ
学校での過ごし方にも、音楽へ向かっていく時期の変化が見えます。小学生のころは球技をいろいろ経験するクラブに入っていましたが、中学・高校では部活動に所属していませんでした。
「中高は入ってなくて、小学生に球技をなんでもやるクラブに入ってました」
出典:Numero TOKYO「【11月号別冊付録】BE:FIRST マナトに一問一答!」(2023年9月28日)
同じインタビューでは、中学・高校時代のあだ名を「マナ」「マナティ」と答えています。学校ではそう呼ばれながら、放課後や学校外では歌とダンスの経験を積んでいた時期でした。
MANATOの家族構成は?両親や兄弟について
MANATOの音楽への最初の入口を作ったのは両親でした。家でよく歌う子どもの姿を見て、レッスンを受けることを勧めています。
本人がアーティストになりたいと自覚するのはその少し後です。両親が進路を決めたというより、まず歌やダンスに触れる場所を用意し、そこからMANATO自身の意思が育っていった流れでした。
父親については、2024年の『おかえり音楽室』で福岡の思い出をたどる中、本人が父とのエピソードを語っています。番組ではダンスに明け暮れた練習場所も訪れ、恩師や友人とも再会しました。
「福岡で生まれ育ったことを誇りに思い」
出典:ORICON NEWS「BE:FIRST・MANATO、地元福岡でアーティストとしての原体験迫る メンバーと思い出の地でパフォーマンスも」(2024年8月8日)
公式プロフィールでは、兄弟姉妹の人数や続柄は公表されていません。家族について確かに分かるのは、両親が幼少期のレッスン開始に関わり、福岡で過ごした家庭の時間が本人の原点の一部になっていることです。
MANATOの学歴は?小学校・中学校・高校と学生時代
小学校と中学校の具体的な校名は公表されていません。学生時代の情報で大きな節目になるのは、中学1年生でのニューヨーク留学と、福岡で過ごした高校時代です。
小学校卒業直後にニューヨークへ
小学校を卒業したばかりのMANATOには、学校の授業で英語を本格的に学んだ経験がほとんどありませんでした。それでも歌・ダンス・英語を学ぶため、中学1年生の時期にニューヨークへ渡っています。
渡米前には家庭教師に来てもらい、英語圏に住む友人とオンラインで会話するなど準備もしていました。現地での生活については、後の章で詳しく見ていきます。
高校の母校は第一薬科大学付属高等学校と学校公式が紹介
2024年の学校公式『おかえり音楽室』告知では、MANATOが母校の音楽室へ戻る企画について、第一薬科大学付属高等学校で歌うと明記されています。卒業後に母校へ戻り、恩師や同級生と再会した様子も紹介されました。
高校時代の意外な接点として、同い年のバスケットボール選手・河村勇輝とのエピソードもあります。MANATOは2026年9月、全校集会で河村が何度も表彰されていた姿を見ていたと明かし、学科は違っていたと話しました。
学校公式は母校を第一薬科大学付属高等学校と紹介しています。一方、2026年のORICON記事ではMANATOの「僕も第一に通っていて」という発言に「福岡第一高等学校」との補足があります。両校は姉妹校で隣接しており、学校行事などを合同で行う関係です。
中学・高校では部活に入らず、歌とダンスに時間を使っていました。高校卒業後の大学名については公式プロフィールなどで案内されていません。
13歳のNY留学でMANATOは何を経験した?
中学1年生で経験したニューヨーク留学は、本人が「これまでの経験でいちばん大きい出来事だった」と振り返るほど大きな時間でした。目的は歌とダンスだけではなく、英語を学ぶことにもありました。
「留学中の一番の壁は言語でした。」
出典:anan「BE:FIRST・MANATO『新しいことにたくさん挑戦して自分の引き出しを増やし続けていくことが大事』」(公開日記載なし)
現地へ着いた直後は緊張して、なかなか英語を話せなかったそうです。同じプログラムに日本人の仲間がいたことで少しずつ肩の力が抜け、英語の音にも慣れていきました。
音楽面では、日本にいたときとは違う機会にも出会っています。ストリートでライブをしたり、カフェのオープンマイクで歌ったりと、街の中で人前に立つ経験を重ねました。
ニューヨークにはさまざまなジャンルの音楽が身近にあり、英語だけでなく、歌い方やリズムの感じ方にも触れられる環境がありました。後年MANATOは、未知のものへ飛び込むことへのためらいが減ったと振り返っています。
帰国後も、そのまま一直線に進んだわけではありません。一度レッスンから距離を置き、ほかのことに触れた時期もあったと本人は話しています。
THE FIRST以前のMANATOはどんな活動をしていた?
10代のMANATOは、オーディションや育成プロジェクトにも参加しています。2015年のLDH公式アーカイブでは、PROJECT TARO 武者修行2015のJPメンバーとして「MANATO」の名前が掲載されています。
このころから、歌だけ、ダンスだけに絞らず両方を経験していました。のちに『THE FIRST』へ応募した理由を語った際には、それ以前にライブハウスで歌ったことや、バックダンサーを務めた経験があったと説明しています。
LDHの当時ページによると、PROJECT TAROの「武者修行2015」は全国各地でパフォーマンスを行う企画で、8月23日にお台場でファイナルを開催しています。メンバー欄はNYとJPに分かれ、MANATOはJP側のメンバーとして掲載されていました。
BE:FIRST結成後だけを見ると『THE FIRST』が突然のスタートに見えますが、MANATOにとってはその前に、人前で歌うこと、ダンサーとしてステージに立つこと、オーディションで選ばれることをそれぞれ経験する期間がありました。
BMSGの『THE FIRST』公式アーカイブには、3次審査の参加者として本名表記の「廣瀨真人」が残っています。検索されることの多いMANATOの本名についても、BMSGの当時資料で確認できます。
3次審査のダンスプラクティスでは、廣瀨真人の名前がTeam Cにあります。合宿1次のクリエイティブ審査ではTeam Aで「“A” Life」に参加し、その後の擬似プロ審査では「Be Free」へ。審査が進むたびに、一人で完成させるパフォーマンスではなく、メンバー同士で声や動きを組み合わせる課題が増えていきました。
最終審査の「Shining One」では、SHOTA、JUNON、SOTA、RYUHEIとTeam Shiningを組みます。BMSG公式アーカイブにはダンスプラクティスとステージの両方が残っており、BE:FIRSTになる直前のMANATOを時系列で追える記録になっています。
MANATOはなぜTHE FIRSTを受けた?
ライブハウスで歌い、バックダンサーも経験してきたMANATOが次に求めたのは、個人とは違う形で音楽を作ることでした。それが『THE FIRST』への応募につながります。
「グループで活動をしてみたい」
出典:CanCam.jp「BE:FIRST・MANATOの15問15答『小さい頃から歌うのが大好きでした』」(2021年10月9日)
オーディションでは歌唱やダンスだけでなく、参加者同士で作品を作るクリエイティブ審査もありました。合宿擬似プロ審査の「Be Free」では、JUNON、LEO、SOTA、REIKO、RUIと同じチームでステージに立っています。
BMSGが公開している「Be Free」の映像には、デビュー前のMANATOがチームの一員として歌い踊る姿が残っています。ニューヨークやライブハウス、バックダンサーとして積んだ経験が、グループ審査の場へ持ち込まれました。
「Be Free」は、プロが制作した楽曲と振り付けを短い期間で仕上げ、実際に配信リリースまで行う「擬似プロ審査」の課題でした。ボイストレーニングやレコーディングも含む一週間を経てステージに立つ形式で、デビュー後に近い制作環境をオーディション中に経験しています。
審査期間中は、仲間と過ごす時間そのものも大きかったようです。本人は楽しかった出来事にBBQを挙げる一方、つらかったことには仲間との別れを挙げています。
「才能を殺さない」
出典:CanCam.jp「BE:FIRST・MANATOの15問15答『小さい頃から歌うのが大好きでした』」(2021年10月9日)
これはSKY-HIから言われた言葉の中で、MANATOが最も印象に残っているものとして挙げた言葉です。最終審査では「Shining One」に臨み、オーディションはメンバー決定の場面へ進みました。
BE:FIRSTのMANATOになるまで
2021年8月13日、BMSGのオーディション『THE FIRST』からBE:FIRSTが誕生し、MANATOもメンバーとして発表されました。BE:FIRST公式の「BE:FIRST 始動。」には、当時選ばれたメンバーと8月16日のプレデビューが記録されています。
プレデビュー直前の8月15日、BE:FIRST公式XにはHMV&BOOKS SHIBUYAを訪れ、ファンと初めて直接会えたことを伝える投稿が残っています。翌16日、「Shining One」が配信され、グループとしての活動が動き始めました。
11月3日には「Gifted.」でCDデビュー。小学生のころ、家で歌っていたことから始まった音楽との時間は、福岡でのレッスン、ニューヨーク、10代のオーディションやステージ経験を経て、BE:FIRSTへつながりました。
最初は好きになれなかったダンスも、途中からは自分の意思で向き合うものへ変わりました。個人で歌い踊ってきたMANATOが「グループで活動してみたい」と選んだ先にあったのが、BE:FIRSTというステージでした。























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