Travis Japanで楽曲の振り付けも担い、ステージでは切れのあるダンスを見せる吉澤閑也。現在の姿だけを見ると、幼いころからダンス一筋だったようにも見えますが、少年時代の中心にあったのはバスケットボールと、にぎやかな家の食卓でした。
小学生のころにはKinKi Kidsに憧れ、芸能界を意識するようになります。ただ、最初に履歴書を送ったときはオーディションに呼ばれませんでした。
その約5年後、母親がもう一度履歴書を送ったことから、吉澤閑也のアイドルへの道が動き始めます。
5人きょうだいの末っ子として過ごした子ども時代、小学4年生ごろから夢中になったバスケットボール、学校生活と仕事の両立、そしてジュニア時代に身につけていったダンス。順にたどると、Travis Japanで振り付けを担う現在までの流れが見えてきます。
吉澤閑也は昔どんな子だった?幼少期と少年時代
吉澤閑也は神奈川県出身。子どものころの話には、家の台所、きょうだい、バスケットボール、テレビで見ていたアイドルなど、後の仕事につながる前の生活がかなり具体的に残っています。
小学校低学年から包丁とフライパンを使っていた
料理を始めたのはかなり早く、小学校低学年のころには包丁やフライパンを使っていました。兄や姉たちと一緒にホットケーキを焼いたこともあり、料理は大人になってから急に始めた趣味ではありません。
2026年のインタビューでは、子どものころから『クレヨンしんちゃん』が好きで、テレビも映画も見ていたことも明かしています。家で過ごす時間の中に、料理やテレビといった身近な楽しみがありました。
僕は5人きょうだいの末っ子。
出典:オレンジページnet「吉澤閑也さん『自分たちが経験してきたこと、受け継いできたことを言葉で伝え、具現化して後輩たちに渡していきたい』」(2026年1月23日)
小4ごろ、兄と田臥勇太を見てバスケを始める
もう一つ、少年時代を長く占めたのがバスケットボールです。きっかけになったのは、バスケをしていた兄と一緒に田臥勇太選手を見たことでした。本人の記憶では、小学4年生ごろからプレーを始めています。
憧れの選手を見て終わるのではなく、自分でもボールを持ち、高校まで部活動に在籍しました。のちに仕事が増えて練習へ十分に参加できなくなってからも、時間を見つけて部活へ顔を出していたと振り返っています。
同じ小学生のころ、アイドルにも憧れていた
バスケを始めたのと近い時期、吉澤は芸能界にも目を向けています。好きだったのはKinKi Kids。小学生の時点で、ジャニーズに入りたいという気持ちを家族にも口にしていました。
小4のときには「ジャニーズに入りたい」って言ってました。
出典:non-no web「Travis Japanの素顔に接近!vol.3」(2020年5月16日)
そこで一度、履歴書を送ります。しかし、このときはオーディションに呼ばれませんでした。すぐに芸能活動が始まったわけではなく、その後もしばらく学校生活やバスケのある日常が続きます。
小学校時代には、好きだった女子が男子から嫌がらせを受けているところへ割って入り、「やめろ」と止めたこともあったそうです。後年のQ&Aで本人が思い出として話しており、ステージとは関係のない学校での一場面も残っています。
また、芸能界へ入っていなかった場合について聞かれた際には、NBA選手か保育士を挙げています。バスケを仕事にしたい気持ちと、子どもに関わる仕事という二つの進路を思い浮かべていました。
吉澤閑也の家族構成は?5人きょうだいの末っ子と母親との暮らし
家での思い出として繰り返し登場するのが、大皿に盛られた料理です。母親は仕事をしながら子どもたちを育て、普段の夕食では野菜炒めなどを大皿で出すことが多かったと吉澤は話しています。
大皿のおかずは「のんびり食べてるとなくなる」
きょうだいが多い家庭では、食卓にも独特の勢いがありました。大皿のおかずをみんなで取るため、ゆっくりしていると自分の分がなくなってしまう。吉澤が小さかったころの食事は、そんなにぎやかな時間だったようです。
遊び相手に困らないけど、食事はマジで戦争。
出典:Ray「尊敬&緊張する先輩は…山田涼介くん♡ Travis Japan・吉澤閑也の素顔に迫る!」(2021年11月28日)
普段の献立とは別に、吉澤の記憶に強く残っているのが母親のハンバーグです。特別な料理として、大きなハンバーグを5枚焼いてくれたといいます。別のインタビューでも「家庭の味」としてハンバーグとチャーハンを挙げています。
母親については、本人がシングルマザーだったと明かしています。父親の氏名や職業など、一般人家族の詳しい個人情報は公表されていません。
母親が5年後に履歴書をもう一度送った
最初の履歴書から約5年。芸能界との接点をもう一度作ったのも母親でした。小学生のころに一度応募して何も起きなかったあと、母親が改めて履歴書を送り、吉澤はオーディションへ進むことになります。
子どものころに本人が口にした「入りたい」という気持ちを、数年後に母親がもう一度応募という形にした出来事でした。
兄や姉たちは、幼いころには一緒に遊び、料理もする身近な存在でした。兄のバスケが競技を始める入口になり、母親の再応募が芸能活動への入口になるなど、家族との日常がいくつかの場面で吉澤の進路と交差しています。
吉澤閑也の学歴は?中学・高校時代とバスケットボール
小学校・中学校・高校の具体的な学校名は、本人や所属先の公式プロフィールでは公表されていません。大学についても、大学名や進学を本人・所属先が公表した確かな情報はありません。
学校生活の中心にはバスケがあった
学校名より具体的に残っているのは、部活動で何をしていたかです。小学校4年生ごろから始めたバスケは中学、高校へ続きました。兄が好きだった田臥勇太選手を一緒に見たことが、最初のきっかけでした。
兄が田臥選手好きで見ていて、それを一緒に観ていました。
出典:ORICON NEWS「Travis Japan吉澤閑也、念願のNBA仕事に歓喜」(2026年2月26日)
中学3年生ごろになると芸能の仕事が増え、部活へほとんど行けない時期も出てきました。それでも完全に離れたわけではなく、ときどき練習へ参加。部活への在籍自体は高校まで続けています。
学生時代の得意科目として本人が挙げているのは音楽です。バスケを長く続けながら、仕事では歌やダンスに触れる時間が増えていく時期でもありました。
中学3年生ごろからは、放課後を毎日のように部活へ使える生活ではなくなります。学校、バスケ、芸能の仕事が同じ時期に重なり、参加できる日に練習へ行く形へ変わっていきました。高校まで在籍を続けたという本人の話からも、バスケが短期間の習い事ではなかったことが分かります。
バスケで身についた動きは、後のダンスにも残った
バスケットボールとダンスは別の競技ですが、吉澤本人はステップや体重移動に共通点を感じています。また、コート全体を見るための視野の広さも、グループで動く現在の仕事に生きていると語っています。
僕は振り付けもするんですけど、それがダンスに生きています。
出典:TVガイドWeb「Travis Japan・吉澤閑也、ジャニーズでバスケチームを作るなら…」(2021年9月25日)
吉澤閑也がジャニーズJr.になるまで
小学生で一度履歴書を送り、そのときはオーディションに呼ばれなかった吉澤。約5年後の再応募では、『スクール革命!』の新入生を決める公開オーディションに参加しました。
このオーディションでは番組の新入生には選ばれませんでしたが、その後はジャニーズJr.として活動を始めます。2009年にはすでにジュニアとしての歩みが始まっており、中学時代のバスケ部へ行く時間が減っていったのもこのころです。
「2009年4月19日」は入所日なのか
吉澤閑也の「入所日」として2009年4月19日が紹介されることがあります。ただ、本人はTravis Japan公式YouTubeの年表企画で正式な入所日を明確に断定せず、4月19日については『スクール革命!』のオーディションを受けた日として振り返っています。
同じオーディションには、のちにSixTONESとなる髙地優吾も参加していました。吉澤の場合は番組出演者としての合格とジュニアとして活動を始めた経緯が同じ一日として整理しにくく、確実に言えるのは2009年からジャニーズJr.として活動していたことです。
最初からダンスが完成していたわけではなかった
ジュニアとしてステージに立つようになると、覚えるべき振り付けは一気に増えていきました。吉澤が後年話しているダンスの覚え方は、まず先生の動きや角度までそのまま写し取ること。そこから少しずつ自分の形へ崩していく方法です。
大人数のジュニアが区画ごとに入って踊る、いわゆる「ジュニアマンション」の仕事では、急な欠員に対応できるよう複数の場所の振り付けを覚えていたことも、公式YouTubeの年表企画で語られています。一つの立ち位置だけを覚えるのではなく、別の位置へ入る準備もしていました。
ジュニアの仕事は、自分だけが目立つ振り付けを覚えれば終わりではありません。先輩のバックや大人数の舞台では、立ち位置が変われば動線も振りも変わります。欠員が出た場所へ入れるようにしていたという話は、当時の吉澤が舞台全体の動きを覚えていたことを示す具体的なエピソードです。
ジュニア時代に磨いたダンスとTravis Japan結成
2012年、世界的振付師トラヴィス・ペインがメンバー選考に関わり、Travis Japanが結成されました。グループ名もトラヴィス・ペインの名前に由来します。
同年7月から8月にかけて、吉澤は青山劇場の「PLAYZONE’12 SONG & DANC’N。PARTII。」に出演しています。ダンスを前面に出す舞台で経験を積み、翌2013年にも「PLAYZONE’13 SONG & DANC’N。PARTIII。」、日生劇場の「ANOTHER」へ出演しました。
2014年には「PLAYZONE IN NISSAY」や「PLAYZONE 1986・・・・2014 ★ありがとう!~青山劇場★」にも名前が残っています。Travis Japan結成後の初期は、テレビで名前を広げる前に、舞台で何度も踊る時間が長く続いていました。青山劇場、日生劇場など会場を移しながら公演を重ね、長い公演期間の中で踊り続ける経験を積んでいた時期です。
吉澤にとっては、小学生で憧れた世界へ入ったあと、さらにダンスを軸とするグループで活動する段階へ進んだ時期です。公演ごとに違う曲と立ち位置を覚え、先輩やほかのジュニアと同じステージを作る経験が重なっていきます。
現在の7人体制になったのは2017年11月。宮近海斗、中村海人、七五三掛龍也、川島如恵留、吉澤閑也に松田元太、松倉海斗が加わり、その7人で活動を続けることになります。
7人体制になっても、すぐにメジャーデビューが決まったわけではありません。2018年にはジャニーズJr.チャンネルでのYouTube配信が始まり、舞台やコンサートと並行して、動画でも7人の名前やダンスを届けるようになりました。
2021年には全国ツアー「IMAGE NATION」を開催し、同年には歴代ジャニーズ楽曲をダンスでつなぐ「+81 DANCE STUDIO」もスタート。吉澤が振り付けを担う場面も増えましたが、この時点ではまだジャニーズJr.としての活動が続いていました。
吉澤はグループ内で振り付けも担当するようになりました。2021年のインタビューでは、ダンス上達のコツとして、教える人の動きを角度までコピーし、その後に自分流へ崩す方法を挙げています。ジュニア時代に大量の振り付けを覚えていた経験とも重なる話です。
一方で、本人が「ジャニーズに入っていなかったら」と聞かれたときに挙げたのはNBA選手か保育士でした。アイドル活動が始まったあとも、少年時代から続いたバスケットボールへの思いは消えていません。
Travis Japanとしてロサンゼルスへ渡り世界デビューへ
Travis Japanは2022年3月、ダンスや歌、語学などのスキルを磨くためアメリカ・ロサンゼルスへ渡りました。日本での定期的な活動をいったん離れ、7人で共同生活をしながら海外でレッスンやコンテストへ挑む生活が始まります。
現地では「World of Dance Championship Series」に出場し、『America’s Got Talent』にも出演。ジュニア時代から積み重ねてきたダンスを、日本国内の舞台とは違う環境で見せる機会が増えていきました。
『America’s Got Talent』では「夢のHollywood」の英語版などを披露し、セミファイナルまで進出。日本で長くバックダンサーや舞台出演を経験してきた7人が、英語でのパフォーマンスや海外の審査を受ける側へ回りました。
ロサンゼルスでは7人で共同生活を送りながら、パフォーマンスだけでなく語学にも取り組んでいます。国内で仕事を続けながらデビューを待つのではなく、活動拠点そのものを移して過ごした数か月が、Capitol Recordsとの契約につながっていきました。
その活動を経てCapitol Recordsとの契約が決まり、2022年10月28日に「JUST DANCE!」を世界配信。Travis Japanは全世界メジャーデビューを果たしました。
小学生のころ、一度送った履歴書ではオーディションに呼ばれなかった少年は、母親の再応募をきっかけにジュニアとなり、ダンスの立ち位置をいくつも覚え、Travis Japanの一員として長い下積みを重ねました。
その間も、兄と見たバスケットボールで身についたステップや視野は本人の中に残り、やがて振り付けにもつながっていきます。2022年10月28日、「JUST DANCE!」の配信とともに、吉澤閑也はTravis Japanのメンバーとして世界デビューの日を迎えました。



























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