Snow Manのステージでは大きく体を使って踊り、バラエティーではよく笑い、よくしゃべる佐久間大介さん。現在の姿だけを見ると、子どものころから人前に出ることが好きだったようにも見えます。
ところが、本人や母親が振り返る少年時代は、その印象とはかなり違います。人と目を合わせることが苦手で、学校でもほとんどしゃべらないほどおとなしい子だったといいます。
佐久間大介さんの原点にあったのは、目立つことよりも、言葉の代わりに自分を表現できたダンスでした。
東京・葛西で過ごした幼少期から、家族との日常、小学生で始めたダンス、学生生活、13歳での事務所入所へ。そこから長いJr.時代を経てSnow ManとしてCDデビューするまでを、昔の具体的な場面と本人の言葉を中心に追っていきます。
佐久間大介は昔どんな子だった?葛西で育った幼少期
佐久間大介さんは東京都江戸川区の葛西で生まれ育ちました。2026年3月の『しゃべくり007』では地元・葛西を取り上げ、子どものころ家族で足を運んだ店や、友人と遊んだ葛西臨海公園の思い出も紹介されています。
にぎやかな街や公園で友達と過ごす一方、本人の性格は今のテレビで見せる姿とは対照的でした。家の外で積極的に会話の輪へ入るタイプではなく、人との間に自分から距離を作ってしまうこともあったそうです。
人と目を合わせるのも苦手だった少年時代
2026年の『しゃべくり007』には母親が登場し、幼稚園から小学校のころは「何もしゃべらなかった」と振り返りました。声を覚えている同級生がいないのではないかと思うほど、おとなしい子だったというのです。
目立つのも嫌いですし、人と目を合わせて話せないんですよ、昔
出典:スポニチアネックス「Snow Man佐久間大介 意外!?幼少期は『気難しい子』 母も『何もできないです』と明かす」(2026年3月10日)
運動も、最初から何でもこなせたわけではありません。母親によると、走ることや縄跳び、球技などは得意ではなく、自転車の補助輪が外れたのも小学3年生のころだったそうです。
後年の『徹子の部屋』では、親に対してさえ壁を作っていた時期があったと本人が話しています。家族の中で過ごしていても、自分の気持ちを言葉で外へ出すのは簡単ではありませんでした。
小学2年生で始めたダンスが初めての表現方法に
そんな佐久間さんが小学2年生で出会ったのがダンスでした。走ることや球技とは違い、ダンスには自分から通い続けました。さまざまなジャンルを経験し、年齢のわりに早い段階で上級クラスへ進んだと本人は振り返っています。
唯一、その時知った表現がダンスだったんですよね。
出典:日刊スポーツ「Snow Man佐久間大介、引っ込み思案だった過去『親も他人と思ってたぐらい…人に対して壁』」(2026年3月5日)
会話ではうまく出せなかった感情も、音楽に合わせて体を動かす時間なら外へ出せる。本人は後年もダンスそのものが好きだと繰り返し話しており、アイドルになる前から「踊ること」は生活の中で特別な場所になっていました。
人前に出ることは苦手でも、ダンスの中では自分を表現できる。その感覚が、のちに芸能界へ進む入口になっていきます。
小学2年生で始めたダンスは、その後も佐久間さんの活動の中心にあり続けています。Snow Manとしてステージに立つ現在も、全身を大きく使った動きや細かな音の取り方は、佐久間さんを印象づける表現のひとつです。
ただ、子どものころから順調だったわけではありません。小学3年生になると、一度ダンスから離れざるを得ない出来事が起こります。
小学3年生の骨折と「発表会に出たい」の一言
小学3年生のころ、佐久間さんは骨折して一時的にダンスができなくなりました。習い事を続けることに少し気持ちが揺れていた時期でもあり、本人は「やめようかな」と思ったこともあったそうです。
踊れないままダンスの発表会を見学すると、舞台に立つ人たちがとても楽しそうに見えました。そこで佐久間さんは、それまでの自分にはあまりなかった行動を取ります。
これ出たい
出典:ORICON NEWS「Snow Man佐久間大介、“好き”が磨いたダンス技術『誰よりも上手いと思って踊っています』 初座長の指針は“調和”【インタビュー後編】」(2026年3月6日)
親からすると、佐久間さんが自分から「出たい」と言ったこと自体が強く印象に残った出来事でした。骨折で一度ダンスから離れた時間が、逆に「自分は踊りたい」という気持ちをはっきりさせることになりました。
その後はダンスへの意欲が増し、技術も伸びていきます。まだアイドルを目指していたわけではありませんが、この時点ですでに、将来芸能界へつながる一番太い線だけはでき始めていました。
佐久間大介の家族構成は?母・父・兄・弟との関係
2026年3月の『しゃべくり007』では、佐久間さんの母親、兄、弟がそろって登場しました。子どものころの性格だけでなく、家族が見てきた佐久間さんの姿が本人の前で語られたことで、家庭での様子も具体的に見えてきました。
母が覚えている「何もしゃべらなかった」幼少期
母親の記憶で特に強いのは、幼稚園や小学校時代のおとなしさです。運動が得意ではなかったこと、自転車にも時間がかかったことを挙げる一方で、ダンスだけは嫌がらずに通っていたと話しています。
芸能界との接点でも母親は重要な役割を持ちます。本人が自分で芸能事務所を探して応募したのではなく、ダンスを通じた縁から話がつながり、最終的に母親が履歴書を送ることになりました。
兄と弟に挟まれた三兄弟の真ん中
佐久間さんには兄と弟がいて、三兄弟の真ん中として育ちました。『しゃべくり007』で兄と弟がそろって登場した際には、テレビの中のSnow Man佐久間大介ではなく、家族の中にいる「大介」としての距離感が見える場面もありました。
葛西で過ごしたころには、家族で地元のファミリーレストランへ出かけることもありました。家の中だけで完結する家庭ではなく、外食や地元での時間も、佐久間さんが後年語る子ども時代の記憶として残っています。
母は高校時代に芸能活動を経験していた
佐久間さんの母親については「元アイドルなのか」と検索されることも多くあります。本人は『Myojo』のロングインタビューで、母が高校時代だけ芸能活動をしていたことを明かしています。
一方で、佐久間さん自身は「2世タレント」のように受け取られることを望まず、母の芸能活動を前面に出してきませんでした。母親の氏名や現在の仕事など、一般人としての詳しい個人情報を所属先が公式プロフィールで公開しているわけでもありません。
SixTONESの京本大我さんとは、母親同士が仕事を通じてつながっていたことから、幼いころから家族ぐるみの交流があったと双方の過去のインタビューで語られています。芸能界入りより前から、のちに同時デビューする相手と縁があったことになります。
実家の事業と父親について分かっていること
父親については「会社社長」「建設会社」といった情報も見かけますが、本人や所属先は会社名や業種、父親の役職を公表していません。佐久間さん本人が雑誌で語った範囲では、実家に事業があり、子どものころは自分も将来そこで働くのだろうと思っていたそうです。
その事業はのちに兄が継いだと本人が話しています。「実家が事業をしている」という話と、「父親が特定業種の会社社長である」という話は同じではないため、父親の職業はそれ以上広げずに見るのが自然です。
佐久間大介さんが葛西で生まれ育ったことは本人出演番組で紹介されていますが、現在の実家住所や家族の勤務先は公表されていません。
佐久間大介の学歴は?小学校から大学までの学生時代
佐久間さんの学歴で学校名まで公にたどれるのは大学です。小学校・中学校・高校については所属先の公式プロフィールで校名が公表されておらず、ネット上で広く見かける学校名も本人や所属先が卒業校として示したものではありません。
小学校名は公表されていない
小学校の正式な校名は公表されていません。葛西で育ったという本人の話から候補となる学校名を挙げる情報もありますが、本人や所属先が卒業校として示したものではありません。
そのため、小学校については具体的な校名よりも、本人と母親が語っている当時の性格や習い事、地元での生活を軸に見るのが適切です。卒業アルバムや通学区域から学校を特定する必要もありません。
中学1年生で芸能活動が始まる
中学校名も公式には公表されていませんが、中学1年生だった13歳で事務所へ入ったことは本人が明かしています。学校へ通いながら、レッスンや先輩の仕事に参加する生活が始まりました。
中学3年生ごろになると、性格そのものにも変化が生まれます。ただダンスを続けるだけでは前へ出られないと考え、周囲の目を気にしすぎる自分を変えようとし始めたのです。この転換は、のちのJr.時代に直結します。
高校時代はすでにJr.として舞台に立っていた
高校の正式な校名も本人・所属先からは公表されていません。高校年代には『新春 滝沢革命』『DREAM BOYS』など舞台やコンサートへの出演が続き、学生でありながらJr.として定期的に現場へ立っていました。
授業と芸能活動を行き来する生活の中でも、まだCDデビューの予定は決まっていませんでした。舞台や先輩のバックなど、その都度与えられた場所で踊ることが、当時の仕事の中心でした。
城西国際大学で声優の授業を受けた
大学は城西国際大学へ進学し、2015年に卒業したことが東スポWEBの人物経歴で紹介されています。本人も文化放送『Snow Man佐久間大介の待って、無理、しんどい、、』で、大学時代にメディア学部で声優を学んでいたと話しています。
僕が声優習いたいし、声優学科あるなら行きたい!と思って大学に通い始めるきっかけもそこだったんです
出典:radiko news「マテムり放送100回を記念して佐久間大介の声優業の先生松野太紀が出演!佐久間『僕の中で、ずっと先生』」(2024年3月30日)
講師だった声優の松野太紀さんは、仕事と大学を両立していた佐久間さんについて、出られない可能性があると聞いていたのに実際にはかなり授業へ来ていたと回想しています。佐久間さん自身も、出られる日は「朝の一限から行く」と話していました。
この大学時代は、アイドル活動とは別に声の演技へ触れた時期でもあります。のちに声優として作品へ出演する前に、教室で発声や演技を学ぶ時間があったことになります。
ダンスの先生との縁から芸能界へ
佐久間さんが芸能界へ入った直接の入口も、やはりダンスでした。自分からアイドル事務所を探して応募したのではなく、習っていたダンスを通じたつながりから話が持ち上がり、母親が履歴書を送ります。
それまでの佐久間さんにとって、芸能界は最初から決めていた進路ではありませんでした。「ダンスができるなら」という感覚で足を踏み入れた場所が、やがて長く続く仕事になっていきます。
母が履歴書を送り13歳で事務所へ
入所日は2005年9月25日。佐久間さんは中学1年生の13歳でした。後年のプロフィールでもこの日付が紹介され、2025年9月には本人自身が入所20周年を迎えたことをXで報告しています。
オーディションへ向かう段階でも、「絶対にアイドルになる」という強い野心が先にあったわけではありません。長く続けていたダンスを仕事の場でも踊れることのほうが、当時の本人には分かりやすい魅力でした。
最初は「踊れるなら楽しい」から始まったJr.生活
入所後は、先輩のステージや映像作品などで踊る機会が増えていきます。最初のころは、前に立って歌うことよりも、好きなダンスを続けられる環境そのものを楽しんでいました。
僕は踊れるならば良いかと思って行ってみたら、楽しかった。
出典:デイリースポーツ「26年初語り!Snow Man・佐久間大介 夢の国立、主演映画、ハリウッド進出の目黒蓮へ 新春独占インタビュー」(2026年1月1日)
2006年にはSTARTO ENTERTAINMENTのバイオグラフィーにも舞台やコンサートへの出演記録が残っています。学校へ通う中学生が、放課後や休日には大きな会場や舞台の現場へ向かう生活へ変わっていました。
ジュニア時代に変わった「前に出る」意識
好きなダンスを仕事にできても、Jr.には多くの仲間がいました。上手に踊るだけでは自分の存在が埋もれることもあり、佐久間さんは少しずつ「前へ出るには何を変えればいいのか」を考えるようになります。
ここで変わったのは、ダンスの技術だけではありません。子どものころから人の目を気にしていた自分自身の振る舞いを、意識して変えようとした時期がありました。
中学3年生ごろに引っ込み思案を変えようと決めた
佐久間さんは『徹子の部屋』で、中学3年生ごろに一つの考えへたどり着いたと話しています。それまでのように人の目を気にし続けていては、芸能の世界で前へ出られないと感じたのです。
このままだと、引っ込み思案な自分だと前に出れないなと思って。
出典:日刊スポーツ「Snow Man佐久間大介、引っ込み思案だった過去『親も他人と思ってたぐらい…人に対して壁』」(2026年3月5日)
そこからは、人にどう思われるかを必要以上に怖がらず、自分から話しかけたり前へ出たりすることを意識するようになります。現在の明るいキャラクターは、もともとの性格だけで自然にできあがったものではありませんでした。
先輩の背中を見ながら「もっと前へ」と思うようになった
先輩の後ろで踊るうちに、ステージの前方で歌う姿も目に入ります。最初は踊れるだけで楽しかった佐久間さんにも、「あそこは楽しそうだ」「もっと前に出たい」という気持ちが生まれました。
このままでは埋もれてしまう
出典:デイリースポーツ「26年初語り!Snow Man・佐久間大介 夢の国立、主演映画、ハリウッド進出の目黒蓮へ 新春独占インタビュー」(2026年1月1日)
前へ出るため、佐久間さんは「人に嫌われてもいい」というくらいの気持ちで、自分から存在を示すことを選びました。黙っていても気づいてもらえるのを待つのではなく、反応や会話でも自分を出す方向へ切り替えていきます。
得意なダンスにも「できない」があった
ダンスは大きな武器になりましたが、すべてのジャンルを最初からこなせたわけではありません。Jr.時代には、ほかのダンス選抜には残ることが多かった中で、習ったことのなかったタップダンスの選抜だけは残れず、出演できなかった仕事がありました。
本人は2026年のインタビューで、そのとき初めて「自分にも苦手なものがある」と受け止めたと話しています。できないものを無理に得意だと装うのではなく、自分が強いジャンルをさらに伸ばすという考え方も、Jr.時代に身についたものでした。
Mis Snow ManからSnow Manへ、デビューまでの道のり
入所から数年が過ぎても、すぐにCDデビューが決まったわけではありません。佐久間さんは個人で現場へ呼ばれる時期からユニット活動へ進み、舞台やコンサートで踊り続けました。
その間に一緒に活動する仲間やグループの形も変わります。ここからは、前身ユニットでの活動、Snow Manの始動、9人体制への移行、そしてCDデビューまでを時系列で見ていきます。
2009年にMis Snow Manとして活動
2009年のSTARTO ENTERTAINMENTの記録には、佐久間さんを含むのちのSnow Man初期メンバーが『新春 滝沢革命』『DREAM BOYS』などに出演した履歴が残っています。同年からMis Snow Manのメンバーとしても活動しました。
舞台では歌や芝居だけでなく、高いダンス力やアクロバットが求められます。小学生で始めたダンスが、ここでは単なる習い事ではなく、仕事を続けるためのはっきりした武器になっていました。
2012年にSnow Manとして活動開始
2012年にSnow Manが始動してからも、すぐにデビューへ進んだわけではありません。先輩の舞台やコンサートを支えながら、自分たちの名前で立つ場所を少しずつ増やしていく期間が続きます。
2019年にはラウールさん、向井康二さん、目黒蓮さんが加わり、現在の9人体制になりました。同年8月の東京ドーム公演でSixTONESとの同時CDデビューが発表され、長くJr.として活動してきた佐久間さんにも具体的なデビュー日が見えることになります。
2020年1月22日「D.D.」でCDデビュー
Snow Manは2020年1月22日、シングル「D.D.」でCDデビューしました。佐久間さんが13歳で事務所へ入ってから、およそ15年。ダンスができるから楽しいという気持ちで始まったJr.生活の先に、グループとしてのデビューがありました。
2025年9月25日には入所20周年を迎え、本人のXでも節目を報告しました。CDデビュー後も、アイドルとして活動を始めた日を2005年の入所から数えていることが分かる投稿です。
2026年現在も、佐久間さんはSnow Manのステージに立ちながら、俳優や声優へ活動の幅を広げています。大学で声の演技を学び、Jr.時代に磨いたダンスを続けてきた時間が、現在の複数の表現の場につながっています。




























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