Snow Manの最年長メンバーとして、グループのMCを担い、バラエティーでも独特の間と柔らかなツッコミを見せる深澤辰哉。長く芸能界にいるだけに、昔から人前に立つことが好きだったようにも見えます。
ところが、本人が振り返る幼少期は少し違います。口数は多くなく、目立つことも好きではない子どもでした。将来の夢もアイドルではなく、サッカーやバスケットボールの選手だったといいます。
芸能界を目指していなかった小学6年生が、母親の応募をきっかけにオーディションへ向かい、そこから15年に及ぶジュニア時代を歩くことになります。
J.J.Express、Jr.BOYS、Mis Snow Man、そしてSnow Man。途中にはケガで自分だけグループに入れなかった時期も、別の道を考えた時期もありました。深澤辰哉がどんな少年時代を過ごし、どうやってデビューへたどり着いたのか、時間をさかのぼって見ていきます。
深澤辰哉は昔どんな子だった?幼少期と武蔵小山の思い出
深澤辰哉は1992年5月5日生まれで、公式プロフィールでは東京都出身とされています。出生地そのものは公表されていないため、「東京都で生まれた」とまでは断定できません。
子どものころの本人を知る手がかりは、後年のインタビューにかなり残っています。現在のように大勢の前で話す姿とは違い、本人は幼少期について、基本的にあまりしゃべらなかったと振り返っています。
目立つのが好きではなかった幼稚園時代
幼稚園では、自分から頼んだわけでもないのに、女の子たちが帽子やバッグを脱がせて所定の場所へ片付けてくれることがあったそうです。先生からも、周りの人が自然と手を貸してくれる子として見られていました。
「目立つのも好きじゃなかったかな」
出典:Myojo「10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』深澤辰哉」(2020年6月号)
幼いころから芸能界への憧れがあったわけでもありません。小学校高学年のころに思い描いていたのはスポーツの道で、サッカー選手かバスケットボール選手になりたかったと本人は話しています。
祖父母と通った武蔵小山とクレーンゲーム
2026年8月放送の『ANOTHER SKY』で、深澤は自分の「原点」として東京・武蔵小山を訪れました。少年時代に祖父母と足を運んでいた場所で、なじみの商店街やゲームセンターなどを歩いています。
特に長く続いているのがクレーンゲームです。番組では少年時代に腕を磨いたゲームセンターを再訪。デビュー前の2018年にも、Snow Manとして公式YouTube企画でクレーンゲームの実力を披露していました。
この動画では、5歳ごろからクレーンゲームを始めたことも紹介されています。大人になって突然できた「特技」ではなく、少年時代から遊び続けてきたものが、そのまま深澤らしい得意分野の一つになっていました。
同じ武蔵小山には、祖父母と一緒に立ち寄った思い出や、昔からなじみのある店も残っていました。現在の深澤が「原点」と呼ぶ場所は、仕事を始める前の生活と結びついた街です。
深澤辰哉の家族構成は?父親・母親・妹とのエピソード
深澤辰哉の家族は、父親、母親、本人、妹という構成です。一般人である家族については、本人が公に語っている範囲を超えて氏名や勤務先などを推測する必要はありません。
父親について検索すると職業や実家に関するさまざまな情報が出てきますが、父親の職業は公表されていません。一方、2020年のデビュー時について深澤は、両親がとても喜んでくれたと振り返っています。
母親は、長いジュニア時代の苦しい時期も知っていた存在でした。CDデビューが決まったあと、手に取れる形でCDが発売されたことを両親が喜んでくれたという話には、15年間を見てきた家族の時間も重なります。
妹とは顔がよく似ている
深澤には妹がいます。Snow Manの公式YouTube企画で自分の顔を女性化した画像を見た際には、妹に似ているという反応を見せ、メンバーからも似ていると言われていました。
後年には妹の子どもにあたる姪について話したこともあります。ただし、妹も一般人です。名前や生活状況については、公表された本人発言の範囲を超えて追わないほうが自然です。
祖父母との思い出として残っているのが、前述した武蔵小山です。家族のなかでも祖父母と出掛けた記憶が、2026年になって本人がテレビ番組で訪ね直すほど鮮明に残っていました。
深澤辰哉の学歴は?中学・高校・大学時代まで
深澤辰哉は、小学生のうちに芸能活動を始め、中学・高校・大学と学生生活と仕事を並行してきました。学校時代には、のちに芸能界で活躍する人物との意外なつながりも残っています。
中学では佐藤勝利の3学年上だった
中学校では、のちにtimeleszのメンバーとなる佐藤勝利と同じ学校に通っていました。深澤が3学年上のため在学時期は重なっていませんが、本人も「同じ中学」だったことを明かしています。
Sexy Zoneのデビューが決まったころには、深澤の中学時代の担任が佐藤の担任でもあり、先生から声を掛けられたそうです。後輩が先にCDデビューする時期に、母校の先生から励まされる場面がありました。
中学校名については本人や所属先のプロフィールでは公表されていません。インターネット上では具体的な学校名も出ていますが、この記事では本人発言で確認できる「佐藤勝利と同じ中学校」という事実までを扱います。
高校は日出高等学校!同級生と補習を受けたことも
高校は日出高等学校で、現在の校名は目黒日本大学高等学校です。2026年の『ANOTHER SKY』で深澤本人が母校を訪れ、「深澤辰哉という人間を構成した場所」として当時を振り返りました。
高校時代には滝沢カレンや仲野太賀らと同じ学校で過ごしています。滝沢カレンは後年、深澤と同じクラスで、一緒に補習を受けたこともあったとテレビ番組で振り返っています。
『ANOTHER SKY』では、深澤が2年生のときの担任とも再会しました。担任は音楽を担当しており、当時の記録を見ながら、歌のテストにあまり出ていなかったことを本人と笑いながら振り返っています。
高校ではダンスにも関わっていました。2026年の母校訪問では、現在のダンス部を訪ねる場面もあり、学生時代に過ごした校舎へ芸能活動を続けたまま戻る形になりました。
大学は桜美林大学!磯村勇斗と同級生で2年生ごろに中退
高校卒業後は桜美林大学へ進学しています。2024年放送のTBS系『A-Studio+』では、俳優の磯村勇斗が大学時代の同級生として深澤の名前を挙げました。
磯村によると、2人は大学で同じ授業を受ける仲で、深澤に授業のノートを見せたり、勉強を教えたりしたこともあったそうです。当時すでにジュニアとして活動していた深澤は、大学でも周囲に知られる存在でした。
2人はともに大学2年生のころに中退しています。深澤の具体的な学群・学科名については公表情報だけでは確定できないため、「芸術文化学群」などネット上で挙がる専攻名を断定するのは避けます。
大学へ進んだ時期は、Snow Manとしての将来がまだ見えていなかったころとも重なります。大学生活だけを切り取るのではなく、仕事を続けながら別の進路も現実的に考える時期だったことが、その後の本人の回想から見えてきます。
小学6年でオーディションへ!2004年8月12日に入所
深澤辰哉が芸能界へ足を踏み入れたのは小学6年生のときです。自分で応募したのではなく、母親がテレビ番組『Ya-Ya-yah』の追加オーディションへ応募したことが始まりでした。
本人は何をするのかよく分からないまま会場へ連れて行かれました。当時の夢はサッカー選手かバスケットボール選手。芸能界へ入りたいという明確な目標を持っていたわけではありません。
「まったく燃えなかった(笑)」
出典:Myojo「10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』深澤辰哉」(2020年6月号)
選考が進んでも、本人の中で闘志が燃え上がったわけではなかったといいます。それでも呼ばれるたびに会場へ行き、最終的に残りました。入所日は2004年8月12日です。
同期には山田涼介、橋本良亮、阿部亮平らがいました。のちにSnow Manで同じメンバーとなる阿部とは、長いジュニア時代を同じ入所日から歩くことになります。
2026年8月12日には、深澤の本人公式Instagramで阿部亮平と「入所22周年」を記念する投稿も公開されました。小学6年生だった日のオーディションが、20年以上続くアイドル活動の入口になっています。
J.J.Express時代からデビューを意識するまで
入所後はすぐにステージ経験を重ねます。STARTO ENTERTAINMENTの公式記録では、2005年夏の「Johnnys Theater “SUMMARY 2005”」に深澤辰哉の名前があり、この年にはすでに本格的な舞台活動へ入っていました。
ジュニア内ユニットのJ.J.Expressにも参加します。当時はまだ中学生で、本人は後年、仕事現場に用意された飲み物を後輩へ勝手に勧めてしまったような幼さもあったと振り返っています。
2007年、Hey! Say! JUMPのデビューが決まります。J.J.Expressで一緒に活動してきたメンバーの一部が選ばれる一方、深澤と橋本良亮はデビューメンバーには入りませんでした。
そのとき深澤の記憶に残ったのが、舞台裏で泣いていた橋本良亮の姿です。自分自身はそこまで「デビュー」を現実の目標として捉えていなかったものの、身近な仲間の涙を見て意識が変わっていきました。
その後はJr.BOYSでも活動します。ここには、岩本照、渡辺翔太、阿部亮平、宮舘涼太、佐久間大介ら、のちに6人でSnow Manを結成する顔ぶれがそろっていました。
Mis Snow Man加入は一本の電話から
高校1年生のころ、深澤はケガで仕事を休んでいました。その間に、Jr.BOYSで一緒だったメンバーたちへ「Mis Snow Man」というグループ名が付けられます。
深澤はA.B.C-ZとKis-My-Ft2の合同コンサートを客席側から見た際、かつて一緒に活動していた仲間たちが「Mis Snow Man」として紹介される場面を目にしました。自分だけがそこにいない状態でした。
そこで待つのではなく、自分からジャニー喜多川氏へ電話をかけています。ケガが治ったこと、あのメンバーと一緒に活動してきたことを直接伝え、Mis Snow Manへ加わる流れになりました。
「きっと運命はちがってましたね」
出典:Myojo「10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』深澤辰哉」(2020年6月号)
本人は後年、あの日に電話をしなければ運命は違っていたかもしれないと振り返っています。母親に連れられて始まった芸能活動のなかで、この場面では深澤自身が初めて強く動いて居場所をつかみにいきました。
Snow Man結成!別の進路も考えたジュニア時代
Mis Snow Manとして活動を続けても、すぐにCDデビューへの道が開いたわけではありません。2011年にはメンバーが抜け、阿部亮平が大学受験のため活動を休止し、グループとして動けない時期が訪れました。
深澤は当時19歳前後。学校の同級生たちが就職へ進む時期でもあり、このまま続けるのか、別の仕事を探すのかをメンバー同士で話したといいます。大学生活と芸能活動が重なっていたのもこのころです。
Sexy Zoneのデビューが決まった時期には、同じ中学校の後輩だった佐藤勝利が先にデビューしました。中学時代の担任から励ましの言葉を掛けられたことも、本人の記憶に残っています。
河合郁人や滝沢秀明にも相談していました。滝沢からは、歌や踊りだけでなく笑いを自分の武器として持つ道を示され、深澤は少しずつ現在にもつながる立ち位置を作っていきます。
2012年の『滝沢歌舞伎』では、舞台上のスクリーンに突然「Snow Man」の文字が映し出されました。事前に知らされていなかった6人は、その場で新しいグループ名を受け取ります。
「まだチャンスあんじゃね?」
出典:Myojo「10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』深澤辰哉」(2020年6月号)
グループ名をもらえたことで、深澤は可能性がまだ残っていると感じました。ここから6人のSnow Manとして舞台出演を重ね、特に『滝沢歌舞伎』では長い時間をかけて経験を積んでいきます。
Snow Manという名前を得ても、CDデビューまではさらに長い年月が必要でした。2016年には年間200公演を超えるほど舞台へ立ちながら、その先に何があるのか分からない状態が続いていたと本人は語っています。
9人のSnow Manを選び、15年越しのデビューへ
2018年の『滝沢歌舞伎』では、深澤の誕生日に滝沢秀明から桜の盆栽を贈られました。Snow Manにも花を咲かせてほしいという思いを託された盆栽は、翌2019年、横浜アリーナで単独公演を行うころに花を咲かせたそうです。
2019年1月、6人のSnow Manには大きな選択が提示されます。ラウール、向井康二、目黒蓮を加えて9人で進むのか、それとも6人のまま活動するのか。既存メンバー6人に考える時間が与えられました。
話し合いの結果、6人全員が3人の加入に賛成しました。深澤にとって大きかったのは「デビュー」という目標です。人数を変える以上、中途半端な結果では、6人を応援してきたファンも新たに加わる3人も納得できないと考えていました。
「絶対にデビューする」
出典:Myojo「10000字ロングインタビュー『僕がJr.だったころ』深澤辰哉」(2020年6月号)
9人体制で初めて横浜アリーナのステージへ立った2019年3月、深澤はフォーメーションやパフォーマンスのバランスに手応えを感じます。6人から9人になったSnow Manが、ここからデビューへ一気に進み始めました。
2019年6月28日、深澤たちはジャニー喜多川氏が入院していた病院でCDデビューを知らされます。そして8月8日、東京ドームで行われたジャニーズJr.の公演で、Snow ManとSixTONESのデビューが発表されました。
入所から約15年。2004年に何をするのか分からないままオーディション会場へ向かった少年が、2020年1月22日、Snow Manの「D.D.」でCDデビューの日を迎えます。
発売日には渡辺翔太、目黒蓮と一緒にCDを買いに出掛けました。店で周囲に気付かれて恥ずかしかったという小さな出来事も、長いジュニア生活を終えた直後の本人らしい記憶として残っています。
両親もデビューを喜び、深澤自身もCDという手に取れる形を見て、ようやくデビューした実感が湧いたと振り返っています。幼少期の武蔵小山、母親が応募したオーディション、自分からかけた一本の電話、6人で選んだ9人体制。その先に、Snow Manとして最初のCDがありました。



























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