SixTONESのメンバーとして歌い、舞台に立ち、自ら楽曲も作る京本大我。近年は写真やアートにも表現の場を広げていますが、子どものころから芸能界を目指していたわけではありません。
父は俳優・歌手の京本政樹、母は元アイドル・元タレントの山本博美。芸能に近い家庭で育ちながら、本人が夢中になっていたのはアニメやヒーロー、そして紙と色鉛筆を使ったものづくりでした。
事務所に入るまで、音楽にも芝居にも芸能界にもほとんど興味がなかったと本人は振り返っています。
そんな少年の日常が大きく動いたのは11歳のころ。スカウトをきっかけにダンスを練習し始め、コンサートを見に行った先で突然ステージへ立つことになります。
絵が好きだった幼少期、家族との時間、学校での過ごし方、長いジュニア時代、そしてSixTONESという名前を得るまで。京本大我がアイドルになるまでの道のりを、本人や家族の言葉とともにたどります。
京本大我は昔どんな子だった?絵とものづくりが好きな幼少期
京本大我は東京都出身。父が芸能界で仕事をしていたため、幼いころから映画や音楽に囲まれて育ったようにも思えますが、家庭での過ごし方は少し違っていました。
父・京本政樹は、自分の出演作を息子へ積極的に見せることはなく、「この映画を見なさい」「この音楽を聴きなさい」と芸能の世界へ誘導することもなかったといいます。ゲームを買ってもらうにも、テストで満点を取るといった家庭のルールがありました。
本人が好きだったのは、友人たちと同じようにアニメやヒーローを見ること。芸能活動を始めるまで、音楽や芝居を将来の仕事として意識していたわけではありませんでした。
紙と色鉛筆があれば何時間でも遊べた
一方で、幼いころから長く続いていたのが絵への興味です。紙に向かって自分の頭の中にあるものを形にすることが好きで、自由研究のように正解を決められていない課題にも夢中になっていました。
紙と色鉛筆さえあれば何時間でも楽しむことができた。
出典:MAQUIA「SixTONES 京本大我さんインタビュー。その感性が生まれた場所。そして今思うこと。」(2022年12月24日)
夏休みの宿題では、大きなキャンバスに海を描くだけでは終わりませんでした。家族旅行で拾った本物の貝殻を浜辺の部分へ貼り、平面の絵に立体感を加えています。
「こうしたら面白いかもしれない」と考えながら手を動かし、思い浮かべたものが少しずつ形になっていく。その時間を忘れるほどの集中は、後に写真や楽曲制作へ向かうずっと前から始まっていました。
小学生のころ父と作った「タイガー」のギター
絵の楽しさを身近で教えてくれたのは父でした。京本政樹は美術系の学校で学んだ経験があり、幼い大我と一緒に絵を描いて遊ぶこともあったそうです。
小学生のころ、誕生日を前に父が真っ白な画用紙を差し出し、「作りたいギターを描いてみよう」と持ちかけました。大我は自分の名前から「タイガー」を思い浮かべ、ボディに大きな虎を描き、当時好きだった緑とオレンジで色を付けました。
そのデザインは本当にギターとして形になりました。成長して手が大きくなったため弾けなくなってからも、本人はそのギターを自室に飾っていると話しています。
後年、京本大我は自身のクリエイティブ・プロジェクト「ART-PUT」で、再びオリジナルのエレキギター作りに取り組みました。子どものころの父との工作が、別の形で再び登場しています。
京本大我の家族構成は?父・京本政樹、母・山本博美との関係
京本大我の家庭には芸能界との接点がありましたが、家の中で父の仕事を教材のように見せられて育ったわけではありません。本人の記憶に残っているのは、父と絵を描いたり、家族で旅行したりする日常の場面です。
父・京本政樹は芸能界へ進む道を先に決めなかった
父が俳優として活動していても、幼いころからその世界へ入るよう求められていたわけではありません。京本大我が芸能界と接点を持ったのは、本人が11歳になってから受けたスカウトでした。
父の証言では、先がどうなるか分からない段階で、大我自身がやってみたいという意思を示しています。父は進路を代わりに決めるのではなく、家で始まったダンス練習を見ながら助言する側に回りました。
母・山本博美も芸能活動をしていた
母の山本博美も芸能活動の経験があります。アイドルグループ「CANCAN」のメンバーとして活動し、女優としても仕事をしていました。京本大我自身もテレビ番組で、母が芸能界へ入ったきっかけについて話しています。
2026年には、鈴木保奈美が山本博美とデビュー当時に共演していた話を本人へ伝える場面もありました。両親とも芸能の仕事を知る家庭でしたが、幼い大我へ芸能活動を強く勧めていたという本人証言はありません。
兄弟はおらず一人っ子として育った
京本大我には兄弟姉妹がおらず、一人っ子です。本人は、テレビのチャンネルや食卓のおかずをきょうだいと取り合う経験がなく、家庭では自分のペースで過ごしていたと振り返っています。
一人っ子として育った僕は どこかのんびりしていて。
出典:MAQUIA「SixTONES 京本大我さんに質問! 譲れない美学とは? ライバルは?」(2022年12月25日)
幼稚園のころには、父の友人である柳沢慎吾が自宅を訪れることもありました。本人は当時、柳沢の尻を本気で蹴っていたとテレビで回想しています。また、家族で唐沢寿明・山口智子夫妻と温泉旅行へ行った写真も残っていると明かしました。
京本大我の学歴は?小学校・中学校・高校時代と進路
京本大我の公式プロフィールでは、小学校・中学校・高校の具体的な学校名は公表されていません。学校名を断定するより、本人が語っている学校生活と、芸能活動を並行していた時期の出来事を見ていく方が当時の姿をつかみやすくなります。
休み時間は教室のベランダで仲良し3人と話していた
学生時代の居場所として本人が挙げているのが、教室のベランダです。授業が終わった10分休みになるとベランダへ出て、仲の良い3人組で話すのが日課になっていました。
昼休みに食事を終えたあとも同じ場所へ行き、自分たちでゲームを考えて遊んだといいます。雨の日にも出られる場所だったそうで、華やかな芸能活動とは別に、友人と過ごす学校の日常がありました。
教室のベランダかな。
出典:ORICON NEWS「京本大我&古川琴音、『言えない秘密』音楽がつないだ2人の絆 ピアノ練習通して関係値築く【インタビュー】」(2024年6月25日)
同じインタビューで、学生時代には部活動へ入っていなかったとも話しています。そのため大学のサークルや部活動のように、共通の趣味を持つ仲間が集まる環境には今も憧れがあるそうです。
大学には進学せず芸能活動を続けた
高校卒業後は大学へ進学していません。本人が映画『言えない秘密』のインタビューで、大学生活への憧れを語る中ではっきり明かしています。
僕は大学行ってないので、まだ憧れ続けられますけど…(笑)。
出典:ORICON NEWS「京本大我&古川琴音、『言えない秘密』音楽がつないだ2人の絆 ピアノ練習通して関係値築く【インタビュー】」(2024年6月25日)
すでに小学生のころから芸能活動を始め、高校生の時期にもジュニアとして舞台やステージに立っていました。進学ではなく、そのまま芸能活動の中で経験を重ねる道を進んでいきます。
京本大我は11歳で芸能界へ!スカウトから突然の初ステージまで
京本大我が芸能界へ入る直接のきっかけはスカウトでした。父・京本政樹の証言では、そのとき大我は11歳。先のことはまだ何も決まっていない状況でしたが、本人は自分からやってみたいという意思を示したといいます。
入所日は2006年5月4日として長く記録されており、2006年5月に11歳で芸能活動を始めています。
家の絨毯が毛玉だらけになるほど『青春アミーゴ』を練習
活動を始める前後に家で練習していたのが、当時大ヒットしていた修二と彰の『青春アミーゴ』です。父が見ていたときは動きが小さかったため、もっと大きく踊った方がいいと助言されました。
父が出かけたあと、大我はその言葉どおり家で踊り続けました。帰宅した父が見たのは毛玉だらけになった絨毯。短い時間の中で、どれだけ大きく身体を動かして練習したのかが伝わる跡が残っていました。
本人自身も、事務所へ入った当初は歌もダンスも得意ではなかったと振り返っています。学校の音楽の授業では声量を抑えるよう注意されたことがあり、ダンスも上手に踊れなかったそうです。
鏡の前でカーペットが擦り切れるほど踊り、放課後には一人でカラオケへ行って自分の歌声を録音する練習を続けました。
KAT-TUNを見に行ったはずが、そのままステージへ
芸能活動の始まりには、予定していなかった出来事もありました。父子でKAT-TUNのコンサートへ招かれて見学に行ったところ、会場でジャニー喜多川から声がかかり、大我がそのままステージへ出ることになったのです。
それまで学校生活を送っていた小学生が、多くの観客の前に立つ側へ移る。翌日のワイドショーでは京本政樹の息子がステージに立ったことが報じられ、本人の芸能活動は一気に現実のものになっていきました。
父が最初から進路を決めたのではなく、スカウトを受けた本人がやってみたいと意思を示し、練習を始めたことがこの時期のポイントです。ここから、長いジュニア時代が始まります。
京本大我のジュニア時代!仲間との遊びと将来への葛藤
ジュニアとしての生活は、レッスンや舞台だけで埋まっていたわけではありません。同じ時期を過ごした仲間たちは、仕事場で会う同僚であると同時に、学校外で遊ぶ友人にもなっていきました。
大人数の現場では、家庭で一人っ子として過ごしてきた生活との違いにも直面しました。差し入れや弁当を周囲が素早く取りに行く中で出遅れ、本人が取りに行こうとしたころには何も残っていないこともあったそうです。
森本慎太郎や佐久間大介と秘密基地を作った休日
森本慎太郎とは互いの家へ頻繁に遊びに行っていました。京本が中学生のころ、舞台の楽屋でゲームをしていた小さな森本を見かけたのが印象に残っていると語っています。
Snow Manの佐久間大介の家へ行くこともあり、土日には泊まり会をして秘密基地を作ったり、鬼ごっこをしたりしていました。大人が多い芸能の現場にいながら、本人の感覚では「他校の友達」と遊ぶ時間に近かったそうです。
後に同じSixTONESとなる田中樹との最初の記憶は、手すりにぶら下がっていた小さな田中から歌を褒められた場面。髙地優吾については、出会ったころと現在で関係が大きく変わったこともインタビューで話しています。
高校生のころ「このまま続いたら」と将来を考えた
楽しい仲間との時間がある一方で、高校生になるころには先の見えなさも強くなっていました。当時は新しいグループに名前が付かず、ジュニアがそれぞれ個人で仕事をするような状態が続いていたといいます。
これが続いたらキツいだろうな、と。
出典:ORICON NEWS「SixTONES京本大我、葛藤抱えたJr.時代に訪れた出会いと転機『変わらなきゃヤバいんだ』【インタビュー】」(2022年8月3日)
どうやってこれから活動していけばいいのか分からず、先輩や周囲の人と食事をしながら悩みを話すこともありました。SixTONESというグループができる前には、仕事があっても将来の形が見えない時期が長く続いていたのです。
そんなころに滝沢秀明から『滝沢歌舞伎』で父子共演の話をもらいました。父の仕事を間近で見直し、滝沢の舞台に数年立った経験から、客席にお金を払って来る人がいることを以前より強く意識するようになります。
本人は、学生気分の延長のように仕事を捉える状態が終わり、毎公演の質にムラを出さないことを考え始めた時期だったと説明しています。
SixTONES結成へ!京本大我が6人で歩き始めるまで
2012年のドラマ『私立バカレア高校』をきっかけに、後にSixTONESとなる6人で活動する機会が増えていきました。ただし、6人がすぐ正式なグループになったわけではなく、一度それぞれの活動へ戻る時期もありました。
再び6人で舞台に立つ機会を重ね、2015年に「SixTONES」という名前が付きます。京本大我がグループの原点として挙げている場所が、東京・日比谷のシアタークリエです。
シアタークリエで「SixTONES」の名前を得た
グループ名が初めて発表されたとき、京本はその公演の正式なキャストではありませんでした。それでもステージへ出ることになり、6人の名前がひとつのグループとして示される場に立ち会っています。
今振り返ると、ツイてたな。
出典:with digital「【SixTONESインタビュー】Vol.3 京本大我さん編を公開!【だからteam SixTONESはやめられない!】」(2022年12月23日)
名前を得た2015年は、本人にとって状況が動き始めた年でした。それでも結成がそのままCDデビューにつながったわけではありません。本人は「グループを組めたことがゴールではなかった」と振り返り、その後も数年間ジュニアとして活動を続けています。
2019年にデビュー発表、2020年1月22日にCDデビュー
2019年8月8日、東京ドームでSixTONESのCDデビューが発表されました。11歳で芸能活動を始めてから十年以上が過ぎ、グループ結成からも数年を経た時点での発表でした。
2020年1月22日、SixTONESはYOSHIKIがプロデュースした『Imitation Rain』でCDデビュー。小学生のころ突然ステージへ立った京本大我は、長いジュニア時代を経て、SixTONESの一員として正式なデビューの日を迎えました。
紙と色鉛筆に夢中だった少年が、11歳で初めてステージへ立ち、歌とダンスを自分なりの方法で練習し続けた時間。その途中には仲間との遊びも、将来が見えない高校時代もあり、2015年にSixTONESという居場所が形になりました。
最初から決まっていた一本道ではなく、目の前に来た機会を一つずつ経験しながら、2020年のデビューへたどり着いたのが京本大我の「アイドルになるまで」です。



























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