Snow Manのメンバーとしてステージに立ち、俳優やモデルとしても活動する目黒蓮さん。
今では多くの作品で名前を目にする存在ですが、芸能界に入ってからすぐに目立つ仕事が続いたわけではありません。本人が後年振り返っているのは、サッカーに夢中だった少年時代と、思うように仕事を得られなかった長いジュニア時代です。
目黒さんが芸能界へ入ったのは中学2年生だった2010年。そこからSnow ManとしてCDデビューする2020年までには、学校生活、ジュニアとしての活動、宇宙Six、Snow Man加入と、いくつもの時期が重なっています。
目黒蓮さんには、Snow ManとしてCDデビューする前に約9年間のジュニア時代がありました。
サッカーコートへ自転車で通った夏、家族と囲んだ食卓、仕事へ向かう電車の中、ステージの端でマイクを持てなかった時期。現在の姿だけでは見えにくい時間を、本人が残してきた言葉とともにたどります。
目黒蓮は昔どんな少年だった?サッカーに夢中だった少年時代
目黒蓮さんの公式プロフィールでは、1997年2月16日生まれ、東京都出身とされています。出生地と出身地は同じ意味ではないため、「東京都で生まれた」とまでは断定せず、少年時代について本人が語っている具体的な記憶を見ていきます。
昔の目黒さんを語るうえで外せないのがサッカーです。本人は「ずっとサッカーをやっていた」と話しており、夏になると自転車でサッカーコートまで向かい、ボールを蹴って帰ってくる生活を送っていました。
夏の午後は僕の中ではサッカー!
出典:ORICON NEWS「目黒蓮&中条あやみ、Mrs. GREEN APPLEの新曲『夏の影』で『キリン 午後の紅茶』新CM出演」(2025年7月7日)
芸能活動を始める前の日常には、ステージやカメラではなく、サッカーボールと自転車がありました。中学時代にもサッカーを続けており、芸能界に入ったあともしばらくは、学生生活と仕事だけでなくサッカーのある生活が重なっていました。
家族との食事では一人だけ時間がかかっていた
サッカーに打ち込む一方で、家ではかなりマイペースな一面もあったようです。
2022年、映画『月の満ち欠け』の舞台あいさつで自分の前世を聞かれた目黒さんは「牛ですかね」と答えました。理由として挙げたのが、昔から動きがゆっくりしていたことです。
僕だけ2時間ぐらい掛かっていた
出典:ORICON NEWS「目黒蓮、前世は牛だった?『とにかくマイペースでノロノロ』」(2022年12月1日)
家族で一緒に食事をしていても、自分だけ食べ終えるまでかなり時間がかかっていたと振り返っています。
外ではサッカーで体を動かし、食卓では一人だけゆっくり。単に「活発だった」「おとなしかった」と一言ではまとめにくい少年時代が見えてきます。
昔の自分を「今とあまり変わらない」と振り返ったことも
目黒さんはラジオなどで昔の自分について話す際、現在と大きく変わったというより、もともとの部分はそれほど変わっていないという趣旨の話もしています。
後に芸能界での環境や立ち位置は大きく変化していきますが、日常のテンポや一つのことへ向かう姿勢には、少年時代から続く部分もあったようです。
目黒蓮の家族構成は?父親・母親・弟との関係
目黒さんはこれまでのインタビューで父親、母親、弟について触れています。さらに少年時代を語るうえでは、幼いころから世話をしてくれた祖母の存在も欠かせません。
父親はサッカーにも芸能活動にも関わっていた
父親については、目黒さんがサッカーに取り組んでいた時期から厳しく見守っていたことが、過去の本人インタビューを引用した報道で紹介されています。
芸能界のオーディションを受ける際には、結果がどうなっても親は味方だという内容のメッセージを父親から受け取ったことも語られています。受かることだけを求める言葉ではなく、本人が自分で挑戦することを前提にしたものでした。
ジュニアとして思うように仕事が増えなかった時期には、家に帰って両親へ「辞める」と伝えたこともあったとされています。そのとき両親は強く引き止めるのではなく、本人の言葉をいったん受け止めました。
母親が準備してくれた夕食と冷たい麦茶
2025年に公開されたネピアのCM企画では、目黒さん自身の学生時代の記憶をもとに、母親との日常が紹介されました。
帰宅時間に合わせて出来立ての夕食を食べられるよう準備してくれたこと。部活から帰ったときに冷たい麦茶を飲めるよう、夜のうちに補充してくれていたこと。朝にはティシュを持たせてくれたことなどです。
特別な行事ではありません。毎日の食事や飲み物といった、小さな場面の記憶として残っています。
弟の存在と両親から教えられたこと
目黒さんには弟がいます。本人は過去のロングインタビューで、弟がいることに触れながら、両親から「弟や弱い人を守る」という趣旨のことを教えられていたと語っています。
弟は芸能人ではありません。名前や勤務先など、本人や所属先が公式プロフィールとして公表していない個人情報については広げません。
祖母がサッカーの練習に付き合ってくれた
父母や弟とは別に、目黒さんが幼いころの思い出としてたびたび触れているのが祖母です。
「おばあちゃんっ子」なんですが
出典:めざましmedia「Snow Man・目黒蓮はおばあちゃんっ子!?」(2026年6月11日)
祖母は少年時代の目黒さんと一緒にサッカーの練習もしていました。あるとき祖母がボールの上に乗ってしまい、そのまま転倒して骨折したことまであったそうです。
さらに過去の本人インタビューでは、芸能界のオーディション当日、両親が仕事だったため祖母が電車で会場まで付き添ってくれたという話も残っています。
サッカーの練習にも、芸能界へ向かう最初の日にも、祖母がそばにいました。
目黒蓮の学歴は?中学・高校・大学と学生時代
目黒さんの学校生活は、芸能活動と切り離して考えることができません。中学2年生で芸能界へ入り、高校時代、大学年代までジュニアとしての活動が続いていました。
高校は日出高校(現在の目黒日本大学高校)、大学は城西国際大学メディア学部とする報道があります。一方、現在の所属先公式プロフィールには学校名・学歴の掲載はありません。
中学2年生で芸能界へ入った
目黒さん自身がnon-noのインタビューで「中学2年生でこの世界に入って」と振り返っています。2010年当時は13歳でした。
学校へ通う一方で、オーディションやレッスンへ向かう生活が始まります。2025年のインタビューでは、当時オーディションを受けた帰りに駅のホームでミルクティーを買っていたことも明かしました。
合否が分からないまま帰る日は、「これで最後になるのかな」と思いながら飲んだこともあったそうです。その生活は約1年間続きました。
高校時代も仕事やレッスンへ向かう日々
高校年代になっても、芸能活動だけで生活が埋まっていたわけではありません。学生として過ごしながら、仕事やレッスンへ出向く日々が続きます。
ところが、ジュニアとしての立ち位置は思うように上がりませんでした。仕事へ行けば必ず出番が増えるわけでもなく、同期や周囲との違いを感じる時間も長くなっていきます。
“辞めたい”と思うことが何度もありました
出典:フジテレビ「目黒 蓮さんインタビュー 『教場Ⅱ』」(2020年10月18日)
それでも仕事やレッスンの日はやってきます。行きたくない気持ちを抱えながら電車に乗ったとき、繰り返し聴いていたのがSMAPの「この瞬間、きっと夢じゃない」でした。
後に木村拓哉さんと『教場Ⅱ』で共演した際、目黒さんはこの学生時代の記憶を本人へ伝えています。
大学は城西国際大学メディア学部と報じられている
目黒さんの大学については、城西国際大学メディア学部へ進学したと報じる媒体があります。高校についても日出高校の芸能コースへ進学したとする報道があります。
ただし、MENT RECORDINGの現在の公式プロフィールで確認できるのは生年月日、東京都出身、血液型などで、具体的な高校・大学名は掲載されていません。
学校名そのもの以上に本人の言葉からはっきり見えるのは、中学から大学年代までの多くがジュニア活動と重なっていたことです。
2010年の入所から始まった目黒蓮のジュニア時代
目黒さんの入所日は2010年10月30日として広く紹介されています。本人も2020年10月のインタビューで「ジャニーズに入って、もうすぐ10年」と話しており、中学2年生から活動を始めたことを複数の本人インタビューで振り返っています。
入所したからといって、すぐに大きな仕事が続いたわけではありません。
約9年間のJr.時代は本当に仕事が少なかった
出典:non-no web「目黒蓮さんインタビュー 『悔しい』が原動力」(2023年3月13日)
同じ時期に入った仲間が目立つ仕事へ進んでいく一方、自分は思うような位置へ行けない。目黒さんは後年、同期を見ても競い合うという気持ちにすらなれないほど、自分とは離れた場所にいるように感じていたと語っています。
MAQUIAのインタビューでは、当時の自分について、ステージの端にいることが多く、マイクを持った経験さえほとんどなかったと振り返っています。
仕事へ向かう電車の中で聴いていたSMAP
辞めたい気持ちがあっても、予定された仕事やレッスンには向かわなければなりません。
そんな日の電車で目黒さんが何度も再生していたのが、SMAPの「この瞬間、きっと夢じゃない」でした。本人は「あの曲がなかったら心が折れていたと思います」とまで話しています。
オーディション帰りの駅で飲んだミルクティーと、仕事へ向かう電車の中で繰り返した一曲。ジュニア時代を振り返る本人の話には、駅や電車の場面が何度も出てきます。
同期の原嘉孝とは入所後も長い付き合いに
同期の一人が原嘉孝さんです。後に同じ宇宙Sixでも活動し、目黒さんは2023年のnon-noインタビューで、定期的に連絡を取る同期として原さんの名前を挙げています。
同期会でハンバーガーが有名な店へ行く予定だったのに、目黒さんだけ集合前に一人でハンバーガーを食べてしまったという小さな昔話も残っています。
仕事が少なかった時期やグループ活動をともにした時間を知る同期との関係は、Snow Man加入後も続きました。
19歳で決めた「あと2年」!目標を口にし始めた目黒蓮
長いジュニア時代の中で、大きく行動を変えたのが19歳ごろでした。
目黒さんは、この仕事を諦めることまで考えていました。そのとき友人から、場所を変えても厳しいことはあるという趣旨の言葉をかけられます。
そこで目黒さんは「あと2年」と自分の中で期限を決め、自分が本当にやりたいことを口に出す生活へ変えました。
モデルをやりたい。デビューしたい。以前なら周囲に言えなかった目標を、自分から口にするようになります。目標は言葉だけでなくノートにも書きました。
「デビューしたい」なんてとても言える状況ではなかった
出典:MAQUIA「目黒 蓮さんインタビュー 辞めようと決意した過去、そこから変われたきっかけとは?」(2023年4月22日)
ノートに書いた目標の一つは、『ザ少年倶楽部』でマイクを持つことでした。
現在の目黒さんを知ってから見ると小さく感じる目標かもしれません。しかし当時はステージの端に立つことが多く、マイクを持つこと自体が簡単ではありませんでした。
目黒さんによれば、マイクを持つこと、デビューすること、モデルの仕事など、ノートに記した目標はその後2年間ですべてかなっていったといいます。
宇宙SixからSnow Manへ!2019年1月にメンバー加入
目黒さんは2016年から宇宙Sixのメンバーとして活動しました。
ジュニアとして長く活動を続けてきた目黒さんに、次の大きな変化が訪れたのは2019年です。
MENT RECORDINGの公式ページ「はじめまして、Snow Manです」では、2019年1月、6人だったSnow Manに向井康二さん、目黒蓮さん、ラウールさんの3人が加入したことが記されています。
当初の目黒さんは宇宙SixとSnow Manを兼任していました。すでに所属していたグループがある中で、新しいSnow Manにも加わる形です。
19歳ごろに「あと2年」と決めてから、自分の希望を言葉にするようになった目黒さん。その先で、Snow Manという新しい場所に立つことになります。
2019年8月8日、東京ドームでSnow ManとSixTONESのCDデビューが発表されました。
Snow Man公式Xも2024年8月8日、東京ドームでのデビュー発表から5年を迎えたことを振り返っています。
入所からここまで約9年。中学時代から続いたジュニアとしての時間が、Snow Manのデビュー決定へつながりました。
2020年1月22日、Snow ManとしてCDデビュー
Snow Manのデビューシングル「D.D. / Imitation Rain」は、2020年1月22日に発売されました。
MENT RECORDINGの公式ディスコグラフィーにも、1st Debut Singleとして2020年1月22日の発売日が記録されています。
13歳で芸能界へ入り、思うように仕事が増えない時期を過ごし、「辞めたい」と思いながら電車へ乗った日もありました。19歳ごろには自分の中で期限を決め、言えなかった目標を口にするようになります。
2025年、Snow Manのデビュー5周年に公開された公式映像「Looking back 5 years」では、デビュー当時の思いや5年間の活動を、メンバー自身のインタビューと過去映像で振り返っています。
ジュニア時代にはステージの端から見ていた景色も、Snow Man加入後は少しずつ変わっていきました。
2025年のスタジアムライブ後、目黒さんは自身のInstagramにステージから見た景色を残しています。
その少し前には、スタジアムライブを終えたあとにも写真を投稿していました。かつてノートに書いたのは「マイクを持ちたい」という目標でした。
入所から約9年を経てSnow Manのデビューが決まり、その後は大きな会場で自分の歌を届ける側になりました。目黒蓮さんがアイドルになるまでをたどると、その出発点には、サッカー少年だった日常と、何度も続けるか迷ったジュニア時代があります。






























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